フランチェスカ・レロイ作曲・演出『鍵』(原作・谷崎潤一郎)
媒体名:音楽批評・評論のウェブ・マガジン Mercure des Arts メルキュール・デザール
執筆者名:齋藤俊夫
会場は東京都台東区上野桜木の、彫刻家・平櫛田中(1872-1979)のアトリエであった2階建ての日本家屋。2つの小さな棟が斜めに接続しているような珍しい構造をしている。定員の35名がやっと一部屋に入れるほどの小さな建物。
最初の部屋(夫の部屋)で夫(松平敬)が妻(工藤あかね)とのいわゆるセックスレスの苦悶とその解決策についてのモノローグを歌う。その解決策とは、娘(野田千恵子)の結婚相手として紹介した男・木村(綾香詳三)を愛人として妻と近づけること、そして自分で記した日記を密かに妻が読むようにしむけることであった。同時に、妻も夫が密かに読むように日記をつけていた。
ここから淫靡で倒錯的な今回の舞台は始まる。
今回の舞台である邸内には、夫と尺八とコントラバスのいる「夫の部屋」、そのほぼ隣に娘と小鼓・締太鼓とヴァイオリンのいる「娘の部屋」、それらから少し離れたもう一つの棟に木村(舞踏)と琵琶とクラリネットのいる「木村の部屋」、その棟の2階に階段で上がった所に、妻と笙とチェロのいる「妻の部屋」の4つの部屋がある。その4つで時系列に沿いつつ、それぞれの物語と音楽が独立して同時に進行する中、観客はこの邸内を回遊する。
いや、ただ回遊するだけではない。4人の登場人物のプライベートを「覗き見する」と言うべきであろう。
この作品において最も重要な役割を担う「日記」とは、そもどういったものであろうか?それは本来他人(妻や夫)に読ませるものではない。また、他人には語れない自分の本心を赤裸々に書くことがほとんどである。
その「日記」を妻や夫に読ませるべく書く。つまり、自分の本心のようでいて、他人が読むことを前提とした文言を、他人に明らかに読ませるのではなく密かに読ませる、という実に複雑な心理戦が谷崎の原作において展開された。その日記はどこまでが本心・事実・真実であるか、あるいは本心・事実・真実をあえて書かないでいるのか、どこまでが読者(妻・夫)を騙すための虚構なのかがわからない。さらに、書いている本人にも自分の心境がわからなくなってくるというはなはだややこしい心理描写が延々と続くのだ。
さて、レロイ版『鍵』はというと、舞台を4つの部屋に分けたことでこの「日記の不可知性」を見事にドラマ化したと言えよう。夫、妻、娘、愛人、彼ら全てが部分的にしか事実を知らない。その上で歌い、舞踏する。当然、登場人物たちを覗き見る観客も彼ら以上の事実はその場ではわからない。だが、舞台を回遊することで、登場人物たちの語りの断片を拾い、観客なりに物語を想像・構築していく。だが、物語が同時進行することによって、観客は全ての場面を知ることができない。真実は全て「不可知」であり、ただ、登場人物たち、そして観客たちが「日記を覗き見することによって」それぞれ想像・構築する「不確かな物語」だけがあるのだ。これは原作に忠実かつ見事なドラマ的翻案であった。
また、狭い日本家屋だが、部屋ごとにある程度の距離があるという特徴が音楽的・ドラマ的効果を高めていた。松平敬がバリトンで歌っている、そこに2階のやや遠くから笙の音と妻の歌声が聴こえてくる、1階の別の棟から琵琶の連打が聴こえてくる、隣の部屋から娘の笑い声が聴こえてくる、といったように、音が絶妙の距離感で混ざり合い、単線的ではなく複線的な音楽・ドラマの面白さを高めていた。
洋楽器と和楽器と声楽(木村は舞踏)が組むことにも全く違和感がなく、谷崎の官能と頽廃の美を見事に表現していた。
木村/愛人の綾香詳三の舞踏は、止まる限界まできわめてゆっくりと動くことによって、「動き」というより「硬直」によって何かを表現していたように思えた。夫・妻・娘による雁字搦めの中で、人間ではなく、「純粋な性欲」のような存在、「死人」もしくは「あやつり人形」に限りなく近い存在になってしまったのでは、などと筆者は考えた。
「人様の日記を読んではいけない」というごくごく素朴なタブーを犯させることによるドロドロの愛欲劇にして、誰も真実を知ることが出来ない舞台音楽劇『鍵』、面白いと言うだけでは足りないほどの知的・感性的刺激に満ちた体験であった。次のイギリス初演はどのような趣向を凝らすのか(日本家屋とイギリスの屋敷では大きな違いがあろう)、スタッフの創意工夫を期待したい。
執筆者名:齋藤俊夫 (2019/6/15)