Bearing Witness(証人)

2019年ロンドンのTête à Têteオペラフェスティバルにおいて『The鍵Key』を観劇したアーティスト、アマンダ・チェンバースによる劇評

谷崎潤一郎の重層的な物語が、フランチェスカ・レロイの神秘的な演出で蘇る。

谷崎の1950年の小説『鍵』では、妄想や窃視、伝統的価値観の上に築かれた結婚生活に欺瞞がはびこり、やがて文化変容の時代の中、内側から崩壊していく様子が描かれている。

英国ペーパーバック出版元が「本書のあけすけで親密な表現は、英国の一般的読者の心をかき乱す可能性がある」と注意書きをつけた『鍵』は、今日も色衰えることなく、読者の心を挑発し、揺るがす力を持っている。

フランチェスカ・レロイが谷崎の小説に着想し、南ロンドンのモダニズム邸宅(10 Tollgate Drive, Dulwich)に創り上げたこのサイトスペシフィックオペラは、障子がない邸宅を舞台にしているにもかかわらず、非常に日本的である。

夏の夜の光が良く磨かれた木の床に反射する中、観客は敷居をまたぎ、裸足で廊下を回遊しながら、家族を至近距離で観察するよういざなわれる。

『鍵』の中核を成すのは、赤裸々で個人的な日記の共有である。夫は日記を妻にのぞき見させることによって彼女の情熱を呼びさまそうとする。これに対し妻も日記を書き始めるが、そこに生まれるのは相互理解ではなく、破滅的な結果であることを観客は目の当たりにすることになる。筋書きの外にいた夫妻の娘は、物語が展開していくにつれ、その中心的存在感を増していく。

レロイは、この扇動的雰囲気を、家空間の使い方により表現している。登場人物はそれぞれ、自主亡命ともいうべき一部屋に引きこもり暮らしている。我々が物語の全貌を把握することはついぞ叶わず、観客はどこに身を置くかを自分で決断しなければならない。つまり、観客もいつの間にか物語のテーマに巧みに包まれてしまうのだ。我々は行為者か、目撃者か、はたまたのぞき趣味者なのか?

まもなく4人目の登場人物、木村が現れる。谷崎は、日記の性的幻想を現実に体現する道具として、木村を登場させている。ここで木村は単なる物理的存在として表現されている。まるで民話の幽霊のように、無言で登場人物の間を行き来し、前触れであれ、はたまた必然的結果であれ、不穏でドラマチックな対比を醸し出す。

小説の大胆な性的描写は、ここではより繊細にほのめかされている。あるシーンでは、白い衣裳を纏った妻の郁子が昼下がり、おそらく酒に酔ってソファに横たわり、客観的実在性の象徴として変貌を遂げる。これは谷崎が緻密に追究するテーマである。

本小説では様々な層が複雑に入り組み、シンボリズムが多用される。レロイの音楽的解釈では、英日の楽譜(各部屋に一組の二重奏者が割り当てられる)と二カ国語の台本が用いられ、これが如実に引き出されている。こうして、明晰さと肉体からの分離の双方の感覚が表現され、観客は耳慣れた音と未知の音の間を行き来することになる。例えば和楽器笙とチェロの協奏や、言語間の不和といったように。

コミュニケーション様式にともに敏感な英日両文化にあって、『鍵』は強烈な英日合作プロジェクトと言えるだろう。しかし、谷崎は端的な表現が引きおこす劇的なほのめかしを強調する一方で、おそらく、最終的には常にそれを試みるべき理由をも強調していたのであろう。

そしてこの自分メディアの時代は、日記を書くという伝統的行為にとって何を意味するのであろうか。我々はより理解されるようになったと言えるだろうか?

和訳:佐藤有紀